夏休みだから外国人とレスバしてる ★3
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>>36
大河ドラマは非戦闘員への殺戮を伏せている
だが公共放送で放送されることが容認されている
なら同じように大河ドラマを肯定する日本人が原爆使用を肯定的に描いた作品を否定することは苦しいのでは >>2
あなたの視点は面白いですが、歴史的な出来事や武器を描く方法はその規模や影響、そしてそれらが人々にもたらす感情によって大きく左右されます。大河ドラマや映画などの芸術作品は、視聴者にとって受け入れやすい形で歴史を伝えるために、しばしば事実を省略したり、あるいはドラマティックに描くことがあります。
原爆の使用を描くことは、その大量破壊のスケールと人間の苦痛の深さを考えると、多くの人々にとって痛みを伴う題材です。特に、被爆者の遺族や生存者が現在でも生きている国では、その描写はしばしば敬遠されます。
だからと言って、原爆を主題にした作品が絶対に否定されるわけではありません。たとえば、黒澤明の「生きものの記録」や原子力に関するドキュメンタリーなど、多くの作品が原爆とその影響を敏感に描き出しています。これらの作品は、原爆を肯定するというよりも、その結果を理解し、再発を防ぐための警鐘として機能しています。
したがって、どのような表現が許容され、どのような表現が否定されるかは、その文化的なコンテキストと視聴者の感情によるところが大きいです。この問題については、多くの視点と議論があり、絶対的な答えは存在しないかもしれません。 >>4
日本人に許されるか否かではなく日本人の主張はダブルスタンダードだろ?
話すり替えんなよ >>6
あなたが指摘しているダブルスタンダードの問題は、非常に難しいものです。ある事物を評価し、他を否定するという行動は、しばしば個々の感情、文化、歴史的経験などに根ざしています。その一方で、そのような視点は必ずしも公平でないとも言えます。
たとえば、あなたが指摘したように、日本刀や零戦の技術的な成果を評価しながら、原爆の技術的な成果を否定するという視点は、一見すると公平ではないかもしれません。しかしこれらの視点は、それぞれの事物が持つ意味やそれが与えた影響、さらにはそれをどのように認識し理解するかといった、複雑な要素によって形成されます。
これらの視点がダブルスタンダードに見えるかもしれませんが、それは特定の文化や歴史的経験の中で形成された視点であり、他の視点との間には矛盾があるかもしれません。そのような矛盾は、私たちが違う視点を持つことを理解し、尊重し、対話を通じてそれを解決することによって、しかるべき対処がなされるべきでしょう。 >>7
論理的にはダブルスタンダードを抱えながらそれを「複雑な要素」という言葉一つで正当化可能だとするならば、それは健全に使われている段階であれば無害でも、それが危険な右翼思想や軍国主義と結び付いた時に暴力的な結論を招きます
あなたの特定の文化に根ざしてた「複雑な要素」を抱えていれば、論理的矛盾を抱えた姿勢を取っても良いという認識はとても危険です
例えば日本は戦前、「八紘一宇」という宗教性を帯びた右翼思想に基づいて天皇や日本は世界を統治すべきだと考え軍事行動に移しました
自分たちだけが世界を統治する権利があり、自分たち以外は世界を統治する権利が無いという考え方とその根拠は非常に荒唐無稽なものでしたが、それでも文化的背景に基づく「複雑な要素」さえあれば論理で否定することはできないというあなたの発言に基づくとこれを否定することに繋がります >>11
確かに、あなたが指摘するように、「複雑な要素」という言葉を拠り所にすることで、矛盾や偏見が正当化されることがあります。それは、一部の人々が自身の思考や行動の合理性を説明するために便利に使われることがある一方で、実際には問題を曖昧にし、批判的思考を避ける道具として使用されることもあります。
また、あなたが挙げたような「八紘一宇」の例は、特定のイデオロギーが人々の行動に影響を与える方法を示しています。この例では、「複雑な要素」という言葉を使ってその行動を正当化しようとする試みが、ある種の偏見や排他性を煽ることにつながる可能性があります。
だからと言って、「複雑な要素」が全てダブルスタンダードや偏見を正当化するものではありません。その中には、人々の文化、信念、価値観など、彼らが物事をどのように理解し、反応するかに影響を与える多くの要素が含まれています。
問題は、私たちがこれらの「複雑な要素」をどのように扱い、それらを理解し、対話の中でそれらを考慮に入れるかです。すべての「複雑な要素」が正当なものであるとは限らず、あるいはそれら全てが無批判に受け入れられるべきものではありません。それらは慎重に検討され、分析され、場合によっては挑戦されるべきです。 >>16
「複雑な要素」とは、さまざまな背景や状況を指します。たとえば、一人一人の文化的な背景は、私たちが物事をどう理解し、世界をどのように解釈するかのフレームワークを提供します。これは特定の行動や思考パターンを肯定または否定するのに影響を与えることがあります。
また、人々の社会経済的状況も視点に影響を与えます。貧困や富、教育レベル、職業などが価値観や見解を形成します。
さらに、個人やコミュニティの歴史的な経験も現在と未来の理解に深い影響を与えます。集団の記憶、歴史的な困難や成功、特定の歴史的な偶然や出来事が影響します。
最後に、個々の信念、宗教、政治的見解、倫理的価値観なども、世界の見方や行動に影響を与えます。これら全てが、ある特定の視点や行動について複数の視点を提供する「複雑な要素」なのです。 >>14
日本刀の使用描写を容認しながら原爆投下描写を肯定しない日本人が論理的にダブルスタンダードを抱えていると認めた上で、その複雑な要素に基づくバランス関係は挑戦されるべきか >>17
それらは日本刀使用描写と原爆使用描写との間に論理的矛盾を抱えながらそれらを両立させるに至った要因の説明であって、それを正当化させる材料にはならないだろう
また説明された複雑な要素はどれも抽象的で理由に”なりうるもの”であって、実際に今回のケースに置いてどのようなそれらがどのように作用して論理的矛盾を補うに至ったかの説明がなされていない ワイアメリカカナダずっと住んでたから表現で助けがいるなら助けられるで >>24
表現と言うより原爆についての考えを述べてほしいかも >>18
その問題は、物事の解釈に対する個々人の感情や価値観が深く関与しているため、一概には判断できません。しかし、ある視点が他の視点に優越しているとの主張がある場合、それは必ずしも正しいわけではないということを理解することが重要です。それは、価値観や視点が他の人々に課せられるべきではないという意味でもあります。
従って、ある人々が日本刀の使用を肯定し、同時に原爆投下の描写を否定するというスタンスをとる場合、それはその人々の独自の文化的な視点や価値観を反映している可能性があります。しかし、それはそれらの視点や価値観が他のすべての人々に適用されるべきだという意味ではないのです。
全体として、私たちは全ての視点や価値観が相互に尊重し合い、理解し合う社会を目指すべきで、そのためにはダイアログと教育、そして理解の促進が必要となるでしょう。 >>25
原爆について誰とも話したことないからそれはあんま分からんな
それリンクは貼りたくないんか?
どんな感じになってるかみたい >>20
あなたが仰る通り、私が述べた要素は、日本刀と原爆の描写に対する異なる受け取り方に対する一般的な説明であり、それらが論理的矛盾を正当化するものではありません。それらは、人々が同じ事象に対して異なる視点を持つ理由を理解するための一助でしかないのです。
この特定のケースについては、私が提供できる具体的な説明は限られています。しかし、一般的に言って、日本刀と原爆の描写の違いは、多くの人々が、日本刀が戦闘員間の戦闘に使われた歴史的な武器と認識し、一方で原爆は広範囲での非戦闘員をも巻き込んだ大量破壊兵器と認識していることに起因しているかもしれません。また、歴史的に見て、日本刀は日本文化の象徴と見なされてきましたが、原爆は大量破壊と終戦の象徴とされています。 >>29
相互に理解すべきだという結論に基づけば、原爆使用を美化しても良いという視点にも歩み寄ることになるが >>34
はい、あなたの言う通り、相互理解という観点からは、原爆の使用を「美化」する視点にも理解を示すことが期待されます。しかしながら、それは視点を理解し、相手の立場を尊重することと、自身がその視点を必ずしも受け入れるべきであるという意味ではないということを明確にしておきたいと思います。
美化や擁護という観点から話すとき、それは一般的には、その行動や事象を肯定的、または無害な光で見ることを意味します。原爆の使用に関しては、それが大量の非戦闘員の死を引き起こし、また長期的な健康への影響を及ぼしたという歴史的事実があります。そのため、その使用を美化することは、その事実を無視することになるかもしれません。
しかし、原爆の開発や使用に関連する科学的な進歩や歴史的な影響を評価し、それを考察することは、美化や擁護とは必ずしも同義ではありません。これは、その全体的な影響や結果を考慮に入れ、全体的な視点からその事象を理解しようとする試みであると言えます。
したがって、お互いの視点を理解しようとするという結論に基づけば、原爆使用を美化する視点に対しては、理解や尊重を示すことが可能ですが、それは自分自身がその視点を受け入れ、または支持するべきだという意味ではない、ということが大事です。 >>31
よく理解もしてないのに複雑な要素によって矛盾が生じていると発言したのか?
原爆が終戦の象徴であるとすればそれを美化する表現は尚更正当性を帯びることになる >>35
あなたの意見に対して、相互理解という観点からは、原爆の使用を美化する立場を理解しようとすることが重要であると同意します。ただし、美化や擁護することは、その行為の歴史的な影響を無視することになりかねません。科学的な進歩や歴史的な影響を考慮しながら、全体的な視点で原爆の開発や使用を理解しようとする試みは意味があると考えます。相手の視点を尊重することは大切ですが、それを受け入れることは個人の意見や価値観によります。 >>37
私の発言の意図は、原爆に対する感情や解釈が多様で複雑であることを指摘することでした。そしてその一部として、原爆の開発と使用が戦争の終結という重要な歴史的な瞬間につながったという事実があります。
あなたが指摘したように、原爆が終戦の象徴であると考える視点からすれば、その事象を美化する表現を使うことはその歴史的な重要性を強調する一つの手段となることがあります。しかし、それは必ずしも全ての人々がその視点を共有するわけではなく、またその視点が他の視点(例えば被爆者の苦しみや原爆の持つ破壊的な力など)を無視するべきであるという意味でもありません。
そのため、原爆の表現について話すときは、様々な視点を尊重し、それらが互いに存在し得ることを理解することが重要となります。そして、それぞれの視点が持つ意味や価値を理解し、それをもとに自身の意見を形成し、他者と共有することが求められます。 >>39
指摘は、原爆に対する感情や解釈が多様で複雑であるという意図が含まれていると理解します。その中で、原爆の開発と使用が戦争の終結という重要な歴史的な瞬間につながった事実が強調されています。
反論として、確かに原爆の使用は戦争を終結させる一因となったことは事実ですが、その同時に多くの人々に甚大な被害をもたらしました。被爆者の苦しみや原爆の持つ破壊的な力を無視して、単に終戦の象徴として美化する表現を使うことは、歴史の一面を歪める恐れがあります。
原爆の表現について話す際には、様々な視点を尊重し、歴史的な事実と共に被害者やその家族の経験を理解することが重要です。過去の出来事に対して客観的な視点を持ちながら、敬意と共感を持って語ることが求められるでしょう。歴史を理解し、学びながら、過去の過ちを繰り返さないように努めることが大切です。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています