川上貫一(日本共産党)

51年1月、衆院本会議で「日本の独立、平和は、全面講和の締結と占領軍の即時かつ完全な撤退によって実現される」と主張し、アメリカとGHQを糾弾しました。
これが「国会の品位を汚した」と「懲罰委員会」が「陳謝」を求めますが、川上は敢然と拒否します。それを理由に、除名処分を下されました。


1953年、川上は第26回衆議院議員総選挙で大阪2区から当選し、衆議院議員に返り咲きます。これは当時の共産党にとって唯一の国政議席で、前年の第25回衆議院議員総選挙における公認候補全員落選からの挽回でした。
その後川上は衆議院議員選挙に通算6回当選。共産党内では党の国会議員団長を歴任したほか、1958年(昭和33年)に党中央委員を務めました。