0001風吹けば名無し
2023/01/17(火) 13:47:04.12ID:NivRjpR+0伊賀の方(のえ)と伊賀一族が伊賀氏の変を起こしたこと(変後、のえと伊賀一族は粛清を免れ所領没収の上で流罪になるが、
伊賀一族はのえの死後、所領を返され再び御家人として幕府に仕え続けた)を除
けば鎌倉時代は、ナレーションにもあったように泰時の時代には一旦落着きを見せる。
しかし、政子は義時の死からわずか一年後に他界。
さらに泰時が死去した後に執権職を継いだ泰時の孫・経時は反得宗の動きに対処、時頼(経時の弟)から時宗に掛けて4代将軍・九条頼経、名越光時(北条朝時の嫡男)らを追放した宮騒動、三浦一族を滅ぼした宝治合戦、北条時輔(時宗の異母兄)、北条時章(光時の弟)らを粛清した二月騒動を経て、
ついに、鎌倉幕府最大の危機の元寇を迎えてしまう。時宗死後は北条一族・御家人・御内人が互いに争うようになり霜月騒動では内管領・平頼綱(禅門)が対立する秋田城介・安達泰盛を滅ぼし専横を極めたが、
その禅門も、禅門の専横を嫌った執権・北条貞時(時宗の子)に滅ぼされている(平禅門の乱)。
続く嘉元の乱では貞時と対立する連署・北条時村(政村の子)の邸宅を御内人・北条宗方が襲って討ち取っているが、
すぐに貞時が黒幕であることが露見、宗方は貞時に見捨てられ非業の最期を遂げている。
鎌倉時代末期には病気を理由に執権職を退いた北条高時に代わって北条貞顕が就任、そのことに
不満をもった高時の弟・泰家が出家し貞顕を襲撃するとの噂が流れて
貞顕はわずか10日間で辞任する嘉暦の騒動を経て後醍醐天皇が「得宗・北条高時追討」の綸旨を各地の武士に送ったことで、
楠木正成・新田義貞・赤松円心らが立ち、足利高氏・佐々木道誉らが寝返ったことにより鎌倉幕府は滅亡する。
鎌倉幕府滅亡後も、北条時行や泰家をはじめとする北条家の残党による抵抗自体はあったが、それも鎌倉再興を果たすには至らず、その後は後醍醐天皇による「建武の新政」が失敗した結果南北朝時代に突入する。