・江川事件後の混乱を収拾させた。
・「飛ぶボール」の飛距離を測定して、反発力を落とすようメーカーに要望を出し、1981年のシーズンからボールを旧に復させた。同時に、王貞治などのホームラン打者が用いていたことで知られる圧縮バットの使用も禁じた。
・1984年のロサンゼルスオリンピックから野球が公開競技となることが決まり、1981年12月24日に12球団のオーナーらに要望書を送付して新設する野球場は国際規格で建設するよう訴えた。
・1982年、判定を不服として審判岡田功らに対し暴行を働いた島野育夫、柴田猛(当時両者とも阪神タイガースコーチ)に対し無期限出場停止処分を下した(半年後に処分は解除)。
・1983年6月8日、試合進行の妨げになるとして、投球のサイン交換に用いられていた乱数表の使用を禁止した。
・1984年、折れたバットの直撃を受けて当時西武ライオンズの黒田正宏が負傷した際には、すぐさま品質改善のためにバット製造業者に調査を依頼した。
・同年には日本の野球応援はうるさいとして、応援倫理三則を定めた。
・日本シリーズでセパ両リーグの条件を公平にするため、指名打者制度の導入を決めた(実施は1985年から)。
・当時関東や関西に集中していたフランチャイズの全国分散化を提唱した。
・「法の下の平等」や「刑の重さ」を論点として尊属殺重罰規定の違憲性が問われた裁判では、判事15名のうち14名が違憲と判断したなかで、ただ一人「刑の加重は立法府の裁量に委ねられる」と一人反対意見(合憲判断)を出し、人権感覚・憲法感覚が日本国憲法の理念とかけ離れていると評価された。