私はこの子のためならどんな苦労をしてもいい←これが美談なのは何故
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
「私はこの子のためならどんな苦労をしてもいい
(この子以外の子の為にはそこまでは苦労しようとは思わない)」
は美談とされるのに
「私は日本人には親切にするが外国人には親切にしない」
「私は黄色人種には親切にするが黒人には親切にしない」
とかはなんで非難されるのか??? どちらも特定の属性を持った人だけをえこひいきして
それ以外を比較的に軽視するという構造は完全に同じじゃないのか どちらも血の濃さの濃淡があるだけである
親子・親戚・国籍・人種…みたいに
ここまではえこひいきしてよいが
これ以降は差別です
みたいな境目はあるのか もしないなら
真っ向から対立する2種類の倫理規範を器用に使いこなして
生きてるってことになるのか? >>6
わかりやすく日本人てことにしたが
何人でもまったく同じことがあてはまるやろ 結構まじめに悩んでいる
ワイあほやから賢J民助けてくれ 一つの属性で判断してないからやろ
人間関係なんてトータルで判断するわけで血の繋がりなんかはバフがかかるってだけで絶対の要件ではない
人種差別が問題視されるのは1つの属性(この場合肌の色)などで不当なレッテル張りをされるから 本来どれも当然の考え方や
単に当然のことを問題視して発狂するうるせーやつらがいるから表向きは口に出さないほうが賢いってことになったんや
世の中の割と多くのことは、発狂して言論弾圧するクソガイジを回避するための応急措置でしかないんや >>10
仮にやけど
「私は国籍だけを根拠に
日本人には親切にする」
って言ったら叩かれないと言えるか?
「私は親子関係だけを根拠に
この子には親切にする」
はOKやと思われるが >>11
なるほど説得力ある
なかなか割り切れないものやな 一方は称賛で他方は非難という真逆の現象が起きるのが
(ワイには)不思議に思えるんやろなあ >>12
個人で言う分には価値観で済ませられるけどこれを100万人が言い始めたらそれは叩かれるやろうな
差別系で問題になるのは公的、社会的にそういう判断をし始めたらってだけで1人が言ってる分には有名人でもない限り叩かれない
結局親切にするってのは何かしら自分にメリットがあると判断してのことやからそれの基準を個人で判断するのはみんなやってることやし >>15
「公的、社会的」の面でいうと
子に対する特例的な親切の推奨は
社会に非常に強いメッセージとして発信されとると思う
もう一方の方はその完全に反対やな
そういうところが不思議な倫理現象に思える >>16
そら親子は対象者が2人とかやからそこを個人個人で優遇しても社会全体の問題にはならないけど
人種とか国籍を対象にすると数がえらいことになって社会が上手くいかなくなるからな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています