『ヨブ記』の主人公ヨブは、実際は悔い改めた後も財産は戻ってこず、新しい子供も生まれず惨めに死んだ
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ヨブ記
時は古代。
生まれてから老人になるまで神への信仰を忘れず、信心深く生きてきた
『ヨブ』という男がいました。
神様は、
「この男が私を崇拝するのは、それによって得られる利益のためなのか。
それとも利益などなくても私を信じるのか。」
それを試そうとなされます。
神様はヨブの愛していた息子と娘を全員殺し、財産である家畜等も取り上げ、
さらにヨブ本人は皮膚病にかからせることにしました。
(古代では皮膚病にかかった者は最も汚らわしい存在とされ、人間扱いされなかった) まず、家族の食事中に強盗がやってきて、そこにいたヨブの使用人を殺して立ち去りました。
次に、牧場に雷が落ちて火事になり、家畜のひつじが全滅し、そこにいた使用人は死にました。
さらに他の強盗がやってきて、家畜のラクダを殺し、そこにいた使用人は殺されました。
そして、考えられないほどの大風が吹いて家が倒壊し、中にいたヨブの息子や娘、全員が死にました。
何もかも失ったヨブは
「なぜ私がこんな目にあわなければいけないのか」
という絶望と神への信仰の狭間で葛藤していきます。 その悲惨さにヨブの妻までも
「(まるで地獄のように)神に苦しまされているんだから、
いつまでも神なんか信じていないでどうせ死ぬなら素直に神を呪って死んだほうがマシ」
とヨブを説得するまでに至りました。
ヨブの友人たちも
「何か悪い事をしたから神様が罰を与えられたんだろう。
思い当たることがあったら改心しなさい」
とお門違いの事を言います。
ヨブは神に苦しみを訴えました。
「私はあなたを一度として疑ったことすらありません。
それなのにあなたは私を苦しめるのですか」 神様はお姿を現わされ言いました。
「この世はすべて私が創造したのだが、あなたはその時、どこで何をしていた」
「すべて世界は神によって作られ運営されているのだが、あなたはそれをわかっているのか」
「無知をもって神の計りごとを否定するあなたは何者なのか」
「あなたは自分を悪いものでは無いとしたいために、神である私を悪いものと、否定したいのか」
(原文はもっとずーっと長いです。これらの神様のお言葉はかなり端折っていますので、詳しく知りたい方は"ヨブ記"で検索してください)
ヨブは自らの愚かさに気づき神に許しを願います。 「神様どうかお許しください。あなたが全知全能であることを改めて思い知らされました。
私はあなたの事を耳で聞いていましたが、今は私の目であなたを拝見いたします。
私は償うために死にます。海の塵になっても構いません。」
ヨブは最終的に
「利益など得られなくても構いません。私は神であるあなたを信じたいのです」
と信仰を捨てませんでした。
それを聞いた神様はヨブをお許しになり、彼の皮膚病を治し、財産も倍以上にして返してあげました。
ヨブは新しい息子・娘を前と同じ人数つくりました。
めでたしめでたし
という話なのですが…。 実はこれは現在の聖書と初期の聖書には相違があるらしいのです。
印刷技術などなかった時代、聖書というものは、口伝あるいは
その内容を忠実に書き写して新しく書を作ることで継承されてきたのですが、
ある時期から内容が改変されてしまっているらしいのです。
本来は苦しまされたまま財産も返ってこなかったし子供もできなかったようですね。
「ヨブは孤独のままに生涯を終えたが、神の言葉はヨブの内に残り続けた。
見るも無惨な姿とは裏腹に、ヨブの死に際の顔は幸福に満ちていた」
とのこと…。 この話聞くとみなさんは
「神は弱者を救う気がないのか!」なんて思うかもしれませんが、実は逆なのです。
ヨブ記は弱者のためにある話なのです。
「普通、正しい者は祝福されるから幸せなはず。奴は幸せじゃないから正しく無いのだ」
こういう考え方をヨブ記は否定しています。
そう、義人(正しい人間)でも苦しむときは苦しむ。
つまり、ある人が苦しんでるからといって
"あの人は悪い人間だから神様や世間から罰を受けているんだ"
と考えてはいけないということなのですね。
ある意味「反自己責任主義」と言える話ですね。
絶対的弱者の救済という観点では優れた教えであると思います。
ヨブ記を読めば、外国人の方々が神様について絶対的なご存在(人類が絶対に敵わない存在)と捉えて
キリスト教を信仰していることを理解しやすくなると思いますので、
興味があるなら"ヨブ記"で検索して読んでみることをお勧めします。
みなさんも一緒に、キリスト様の前で幼子の様に綺麗な心に戻り、改心しませんか?
(私の投稿はここまでです。読んで下さり有り難うございました。私も改心します。) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています