西暦663年

倭は、新羅(唐の支援を受けている)に征服された友邦百済の復興を目指し、3万の大軍と6人の将軍を朝鮮半島へ派遣する。
7世紀時点での日本人口は500万人程度と推測されている事、集権化が進んでいなかった事から、当時の倭としては出来得る限りの「国家総動員」で戦争に臨んだ事がその規模から伺えるわけだが、、、、

なんと!!倭国は上陸前に唐水軍と衝突し鎧袖一触、木端微塵に敗北して掻き集めた総兵力を殆ど失ってしまうのだ!!
(殆ど戻ってこれた兵はいなかった。白村江の戦いに従事した6人のうち5人の将軍の名が再び日本書紀に現れる事もなかった)

にも関わらず『日本書紀』では表面上、白紙和平を結び、唐軍は黙って帰り、朝廷は国内改革を粛々と進めた事になっている。

ここで当然疑問

軍隊を全て失い威信が地に落ちた朝廷がどうして地方豪族から見放されずに改革を進められるのか?
倭国軍を全滅させ無力化させた唐が何故黙って引き返すのか?


日本書紀に記される白村江戦後の時系列に沿って、日本独立戦争に至るまでの9年間を見ていきましょう



──前提──
倭国首脳部は百済復興戦争に際し、所在地を大和から筑紫に移している(日清戦争時の広島大本営のように)
https://www2.nhk.or.jp/school/movie/outline.cgi?das_id=D0005120532_00000