https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-05.html
「ラジオをやろう」。これが、社長の井深が出した答えであった。
「トランジスタを作るからには、広く誰もが買える大衆製品を狙わなくては意味がない。それは、ラジオだ。難しくても最初からラジオを狙おうじゃないか」

 まだ、アメリカでも補聴器くらいにしか使えない、低い周波数のトランジスタしか作られていないのだ。これは、大胆な発想だった。しかし、井深は強気だ。
「大丈夫だ、必ずラジオ用のものができるよ」。この言葉で、東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)の技術者たちの挑戦が始まった。


>" 工場内は写真撮影が厳禁なだけでなく、メモも禁止されていた。それでも、せっせと製造工場の様子を見て回っては、案内人というより見学者の見張り番と表現した方が正確な付き添い役に、慣れない英語を使ってしつこく聞く。
その中で岩間は見るもの聞くものすべてを、自分の目と頭に焼き付けるように観察してくる。そして一目散にホテルに戻り、記憶してきた内容を報告書にたたきつけるように記していった。
実際、今レポートを読むとかなりの誤字や脱字、さらには文脈としても変なところが結構あって、あれもこれもと書き進むのが精一杯だったことが見て取れる。しかしその一方で、目にしてきた製造装置や部品などの構造図が随所に描かれていて、本当にメモなしの記憶だけで書いたものなのかと、つい疑いたくなるほど詳しい内容にもなっている。
プロジェクトのメンバーは、こうして送られてくるレポートの内容とスケッチを頼りに、設計図を作って試作にまで漕ぎ着けた。"

『ソニーを創ったもうひとりの男 岩間和夫』第4章より
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