>>15
そもそも江上説は、『古事記』・『日本書紀』などの文献と、古墳から出土した副葬品などの発掘史料の2つのアプローチから説を成り立たせています。その学説の発端とされるのは、1948年5月、民俗学者の岡正雄(Oka Masao)、考古学者の八幡一郎(Yahata Ichiro)、人類学者の石田英一郎(Ishida Eiichiro)と江上波夫らが行なった雑誌の企画した座談会でした。
しかし、古代史研究者にしてみれば、古墳時代後期の副葬品に馬具類が多く見られるとしても、交流のあった大陸文化の影響というだけの可能性が高く、それが「騎馬民族による征服」を意味すると断定する根拠にはあたりません。反対に朝鮮半島の南部には、日本人がそれらの地域を支配した痕跡を残す、前方後円墳が無数に残されています。実証性を重んじる日本史学界・古代史研究者らは江上説に対してこぞって批判を提起しました。

考古学者の佐原真(Sahara Makoto)は、騎馬民族が来たなら同時に伝わるはずの「去勢」の文化、「生贄」の儀礼が日本に無いことを批判の論拠としました。例えば1543年の鉄砲伝来以降、日本各地に鉄砲が量産されたとしても、日本がポルトガル人に征服された国家になった訳ではありません。明治維新以降、日本人が洋服を着るようになっても、外来民族に支配された国家になった訳ではないのと同様です。また、農耕を主とし定住生活を基礎とする日本文化と、遊牧を主とし移動生活をし土地領有の概念が希薄な騎馬民族とは、文化的に大きな違いがあります。