参考に除名になった前例2人貼っとくわ

小川友三
議員会館を自らが経営する製薬会社の商談や宣伝に使用したり、議員資格を使って統制下に置かれていた砂糖の横領や不正取得に関わるなど、その議員活動には批判も多かった。

参議院本会議の予算案審議において小川は議長から許可を得て反対討論に立ったものの、冗漫で意味不明な発言内容を野次られた挙句、時間まで賛否を表明しないまま降壇し、議長に賛否を明らかにするよう要求され登壇してからようやく反対であることを表明した上[3]、実際の採決では賛成票を投じた。
この背信的日和見行為に対して国会内外で批判が高まり[注 2]、任期満了まで1か月を残す4月7日に、参議院本会議において賛成118票、反対10票[注 3]をもって議員を除名された。

小川は、議員記章の虚偽の紛失届を出しては新たなバッヂを入手し、それらを取り巻きにつけさせていた。こういった日頃の品行の問題が他の議員の顰蹙を買い、除名の遠因となったとされる[5]。


川上貫一
1951年(昭和26年)1月27日[1]に衆議院の代表質問に立ち、当時の吉田茂内閣の単独講和論を非難する際、批判の矛先が結果的に朝鮮戦争における米軍やGHQに及んだ。
議事録[1]のうち、告示までに削除された部分(のちの川上の著書[2]では削除部分を「復元」したとされる全文が提示されている)には革命を賞賛して議会政治を否認するとも受け取られる発言が含まれていたとされ、同年3月26日に懲罰委員会にかけられて本会議での陳謝を命じられたが、川上は用意された陳謝文の朗読を拒否したため処分は除名に移行し、3月29日の衆議院本会議で賛成239、反対71で処分案は可決、川上は議員除名処分となった[3]。
1953年(昭和28年)、川上は第26回衆議院議員総選挙で大阪2区から当選し、衆議院議員に返り咲いた。