日本昔ばなしに出てくるレベルの粗暴さやんけ

粗暴な性格で、感情の起伏が激しかった。機嫌が良いときはボーイに1万円札で[31]チップを渡すこともあったが、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常茶飯事であり、そのつど金で表沙汰になるのを防いだ。1957年(昭和32年)10月18日の『読売新聞』朝刊や、同年12月5日の『朝日新聞』夕刊に「力道山また暴れる」と報道されたこともあった[32]。

可愛がられたという張本勲は、飲むと暴れて大きな手で木やガラスのテーブルを叩いて割る、薄いガラスのコップを美味しいと言って食べていた、などと話している[33]。粗暴な行為に関しては、本人の生来の激高しやすい性格も一因ではあるが、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出かけて行ったため、トラブルを引き起こしたという証言もある。

また、リングで殴り合っても、その後の飲み会で対戦した相手と仲良く飲んでいることから、八百長ではないかと疑われる要因が強まったともいわれている[34]。

当時阪急ブレーブスに在籍していたロベルト・バルボンはテレビで力道山の試合を見て、チームメイトに「こういう素晴らしい試合のことを日本では八百長と言うんだ」と嘘の知識を教えられ、バルボンは報道陣のいる前で「リキ、八百長」と言った。後日、これを伝え聞いた力道山本人が怒鳴り込んできたため、バルボンは謝罪し、事の顛末を聞いた力道山はバルボンと和解している。

金田正一とは友人関係だった[35]。

力道山は酒に酔って暴れることを新聞や週刊誌に報じられることが多かったが、安藤昇の自伝によると本当は下戸であったといい、新聞や週刊誌に書かれたその手の記事は「力道山は酒に強い」というイメージを与えるためのパフォーマンスに過ぎなかったという。晩年には大野伴睦から禁酒を命じられていたが、刺殺事件の当日は前田山がロサンゼルス巡業への協力を求めて朝から力道山の家に来て頭を下げた日であったため、上機嫌になって特別に酒を飲んでいた。