呆れたぼうやだね…まだ起きていたのかい…😔
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
😔
語り
村上 国二
明治三十八年三月十日生
(八十一才) 😔
今から六十年程前、私が二十才の頃、大正十四年秋の現在墓地での露天焼きの出来事を書いて見ます。
其の頃は人が死ぬと墓地での土葬が多く、現在のような火葬場も出来ていないし、火葬は少なかった。
当時、江花にAさんが農業をしていた。まだ三十才位の若い血気盛んな青年で、軍隊に入隊し、成績も良く上等兵となって除隊し、嫁をもらって農業を営んでいたが、或る日風邪をひいて、それがもとで肺炎を起し、突然世を去った。 😔
部落内に飛脚が走った。現在のように電話で知らす事は出来ず二人宛で手分けして知らせ廻る。昔から飛脚と言うのは一人で廻らず、必ず二人以上で歩くのであった。私も早速お悔やみに行き、手伝いに加わり火葬係の役が命ぜられた。火葬の手伝いは十名であった。
其の頃の葬式は、現在のように午前十一時出棺と言う事はなく、太陽が沈んでからでないと葬式は出さなかった。 😔
露天焼きだから、薪を一敷位馬車で焼場まで前以って別の者が運んでおくのだが、この薪は二尺二寸の長さで三方六寸と言って三角に割った物で、六寸が三方あるもの百本を一敷と言っていた。火葬場までは座棺を土橇に積み、馬で運んだのであった。
当時の墓地は楢の大木や雑木が沢山生い茂っていて、夕方にもなれば何んとなく淋しい所で、棺を伴なうともなれば尚更淋しさと不気味さが募った。 ここで曼荼羅も貼っておこうね…😔
👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿
👶🏿👶🏾👶🏾👶🏾👶🏾👶🏾👶🏾👶🏾👶🏾👶🏾👶🏿
👶🏿👶🏾👶🏽👶🏽👶🏽👶🏽👶🏽👶🏽👶🏽👶🏾👶🏿
👶🏿👶🏾👶🏽👶🏼👶🏼👶🏼👶🏼👶🏼👶🏽👶🏾👶🏿
👶🏿👶🏾👶🏽👶🏼👶🏻👶🏻👶🏻👶🏼👶🏽👶🏾👶🏿
👶🏿👶🏾👶🏽👶🏼👶🏻😔👶🏻👶🏼👶🏽👶🏾👶🏿
👶🏿👶🏾👶🏽👶🏼👶🏻👶🏻👶🏻👶🏼👶🏽👶🏾👶🏿
👶🏿👶🏾👶🏽👶🏼👶🏼👶🏼👶🏼👶🏼👶🏽👶🏾👶🏿
👶🏿👶🏾👶🏽👶🏽👶🏽👶🏽👶🏽👶🏽👶🏽👶🏾👶🏿
👶🏿👶🏾👶🏾👶🏾👶🏾👶🏾👶🏾👶🏾👶🏾👶🏾👶🏿
👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿👶🏿 😔
墓地の火葬場は一定の所で焼くのではなく、所々で焼いていた。私達十名の者は、まず火葬場で薪を割りたき付けをこしらえて、下の方に薪と共に並べ其の上に座棺を置いた。次に、棺の上にもたき付けを積み石油をかけて火を付け、火の廻わりを見ながら薪を置いていき火勢がついた頃を見計らって初めて次々と薪を置くのであった。 😔
火葬場には酒や菓子、にしめ等を持って行き、皆で飲んだり食べたりしながら火が赤々ともえ死体が焼けて行くのを見守っていた。丁度其の時、同じ手伝の中にBさんと言う小柄で小太りした五十前後の男がいた。これが仲々の悪い男で酒好きで更に大酒豪であった。 😔
墓地は次第に暗く成り星がまたたいていた。焼けている火の聞から死体の頭が焼けはじめると脳が白い油のように流れ出した。この時Bさんが長い棒の先でこれをつつくなどのいたずらを始めたのを見て一同顔をそむけたが、なかなかやめようとしないので皆で、Bやめろ、Aが怒り出すぞと言ってとめた。 😔
Bは酔いがまわっているので、何くそ死んだものが怒るかと言って又棒をさしだした。とたんにバリバリドーンという大きな音と共に燃えている死体が火の中に立ちあがった。その形相はものすごく、まるで不動明王の姿である。皆は驚いて四方に逃げて雑木林の中に身をかくした。 😔
そうこうしている内に恐る恐る戻って来て見ると、まだ赤々と燃えている火の中に立ったまま全身から油を流し、それが燃え上って炎は体より高く上っている。Aを倒せと声高に各々長い棒を持って来て、こらA静かにしろと棒で押し倒し、又その上に薪を積み重ねて焼きはじめた。 😔
Bは酒の酔いも一度にさめて顔が青白く体がふるえて止まらない。火を付けてから四時間ぐらいはかかったが、もう大丈夫焼けたから帰ることにしようと火も段々下火に成ったのを機に一同腰を上げた。
遺骨は翌日身内の者が拾いに来るのである。 😔
もう夜の十時ごろ、あたりは暗やみで前の人の影を日当に歩いていると、誰が言ったのか、おいAの幽霊が後からついて来るぞと言って走り出した。そんなことを言わなくっても気味悪く恐る恐る歩いている一番後の者が走り出し真先に出る。やみの夜には先に走る者が一番先にころぶ。 😔
すると続く者は一斉に将棋倒しに成って皆がころぶ、起き上っては走り、走ってはころび、江花道路へ出るまでには三回もころび着物も泥だらけの有様。江花道路へ出れば道も広いし道も良いので一安心して自然に走る者もなくなった。 😔
暫くしてAさんの家に着き座敷に座ると、ご苦労さんでした先ず粗末なものですが召し上って下さいと言われたが、あまりにも不思議な出来事と恐ろしさで、その話もそこでは誰も口に出す者もなく、酒もご馳走も口にせずそこそこに引上げて帰って来た。私も帰りは二千米程一人ぼっちで帰らなければならず、後からAさんの幽霊がついて来るように思って、うしろを振り返り乍ら家に帰りついた。 😔
其の後間もなくBさんも病死した。あまりにも不思議な出来事と恐ろしかった事は六十年を過ぎた今でも忘れることができない。 😔
合掌🙌
機関誌 郷土をさぐる(第5号)
1986年3月25日印刷 1986年4日 1日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 😔
時代の変遷に依り葬式の形態も変っているので、その比較を次に記述します。
大正初期の火葬場の施設のない時代は埋葬か露天焼にした為、燃料も良質の薪を一敷程燃したものです。お通夜と告別式には参列者全員に精進料理のお膳を出し、お弔いのお酒を振舞い接待していました。
昭和の半頃までは、ほとんど自宅で葬式が行われました。 😔
お葬式は出身県の習慣によって違いもありましたが、衣装は遺族親戚の者は皆、白装束で、男は白衣に白袴、女は白のお高租頭巾を着用、葬儀が終わり野辺の送りは白装束の親族の方が担ぎ、野辺送りの道順の四つ辻には、必ずローソクを立てたものでした。柩は墓地迄徒歩で葬列をつくり、別れを惜んだものです。見送る子供達には「まんじゅう」を配りました。柩の形もその頃は座棺が多かったので、遺体の硬直する前に膝を座曲し納棺していました。 😔
現在の火葬場の施設は皆、寝棺用に作ってあるので、座棺は使用されなくなりました。
上富良野橋が涙橋と呼ばれた所以は、前述の如く葬列をつくってこの橋を通過し、江花街道に出た処で一般会葬者にご挨拶をして、親族、近親者は墓地迄見送り、一般会葬者はそこでお別れしたので、涙橋と呼ばれていました。 😔
乗物も今の様に専用の自動車もなく、人力、馬車、馬橇で墓地まで送ったものです。
現在では葬儀会場もお寺を利用する者が多く、葬儀が終るとその場で喪主に代わり葬儀委員長の挨拶があり、ご遺族、近親者は自動車で火葬場迄お送りするので、一般の会葬者はお寺の前でお見送りをし別れを惜しんで引取っています。
現在では火葬場の設備もよく、短時間で灰になりその日の内にお骨を拾い、骨上法要迄済ませる様になりました。 😔
お願い
私たち「郷土をさぐる会」の機関誌や歴史資料等出版活動は、会員及び賛助会員の費用負担とボランティア活動により
出版費用を補填し、頒布価格を安価に設定しております。
このため、購読をいただくことによって次回の出版費用に充てており、新刊39号については是非ご購読をお願いいたします。 😔
在庫のお知らせ★
現在、13〜19号(以上頒布価800円)、21〜35号・37〜39号(頒布価1,000円)、上富良野志(明治42年発行の復刻版頒布価1,000円)の在庫が僅少ですがあります。
上富良野の歴史を伝える貴重な郷土史ですので、町外へ出ている親戚・知人・同級生の皆様に、お土産のつもりで贈ってはいかがでしょうか。
お求めは、上富良野町公民館にてお願い申し上げます。
送料のご負担をいただきますが、宅配又は郵送頒布も行いますので、遠隔地の方も電話等でお申し込みください。 😔
連絡・申し込み先
〒071-0541 北海道空知郡上富良野町富町1丁目
上富良野町図書館(公民館)内 郷土をさぐる会事務局
Tel 0167−45−3158
Fax 0167−45−3562
皆様の投稿や、取材の情報・御意見をお待ちしております。
https://www.town.kamifurano.hokkaido.jp/hp/saguru/0514murakami.htm ニセモノはたーだコピペしてるだけw
本物のおじさんは普通の会話でも語彙力が凄かったから説得力が違うんだよ
できないなら無理しておじさんの成りすましやめろよ無能 ゼロ戦にはね、ニ種類の大きさの機関銃が搭載されていてね…😔 大東亜戦争が始まった頃、日本の戦闘機のりはよく訓練されて技量も高くてね…😔 ちゃんと52型と54型丙に搭載された13mm機銃の話もしろよジジイ😡 日本のパイロットの中でもエースパイロットは神業的な操縦技術を持っていてね…😔 敵機にぶつかる寸前のぎりぎりまで近づいてコクピットに7.7mmを叩き込んでパイロットを殺して撃墜していたんだよ…😔 なぜ強力な20mmを使わないかわかるかい…ぼうや…😔 20mm機関砲の弾丸はね一発が軍曹のお月給よりも高かったんだよ…😔 だから武隊からは撃つなよ撃つなよの無言の圧力がかかってパイロットたちは空気を読んで使わなかったんだよ…😔 アメリカの戦闘機は防弾も考慮して作られていたから、7.7mmではなかなか堕とすことはできなくてね…😔 当たりどころが良ければB公ですら一発で墜とせたんだよ…😔 20ミリ機関銃は機首に付いててプロペラの間をぬけるやつなのおじさん😗 ところでぼうやはなぜB-29がB公って呼ばれるか知っているかい…😔 >>80
違うよぼうや…20mmは翼から出てプロペラは抜けないんだよ…😔 それはね…マスゴミが国民に公募をしたからなんだよ…😔 「週刊少国民」(朝日新聞社)昭和20年3月18日号に掲載された懸賞企画でね…😔 >>82
羽根に付いてるのが20ミリなんだねおじさん😚
7ミリ機関銃が機首についてるやつだね これがその募集文章さ…😔
懸賞募集 敵機に呼名をつけましょう
最近では日本本土にいても敵のいろいろな飛行機を見ることが多くなりました。例えばB29とかグラマン、カーチスなどの艦載機とかいろいろありますが、私どもにとってはこれを原名で覚えることが煩わしい場合もあります。敵側でも日本の飛行機を識別するためにそれぞ勝手な名前をつけて、たとえば新司偵には「空の通り魔」という名をつけているそうです。私どもも勝手な呼名で敵の飛行機を呼んでやりましょう。
もしもグラマンF6Fヘルキャットがちょっと見て猪に似ていたならば「猪」でもよいではありませんか。ロッキードP38などはフィリピンでは「シラミ」と呼んでいました。また形ばかりでなく、その敵機の性能や用途などから特徴をつかんで命名するのも一方法でしょう。敵だからといって悪口に類した名をつけることはないと思いますが、この名前を聞くとたちまち戦意昂揚、必勝の意気に燃えるような、そして誰にも覚えやすい名前を少国民の皆さんで考えて下さい。さしあたり私どもがその必要を認める敵機は次の通りです。 そしてね…B-29の名前が決まったんだよ…😔
新しい呼名(カッコ内はルビ)
『ビー公』(ビーこう)ボーイングB29超重爆
当選者(四名)(原文では氏名・住所が記載されているが、本稿では氏名と住所の一部のみ記載する。年齢・学校名の記述は無い)
星野 繁 前橋市
永田 勲 岡崎市
赤塚 久俊 福島県石城郡
岩田 仁 静岡県安部郡 >>88
公募でNATOコードネームみたいなのを決めてたんだね🙃 選評 近ごろ毎日のように来襲するB29は、もうすっかり皆さんともおなじみですね。ウンウンという独特の爆音をひびかせながら白く光る腹を見せてゆるやかに旋回するにくらしそうなあの姿は、海の悪者「さめ」か「いるか」ともいいたいところですが、B29という名で一般に知られたこの飛行機にはやっぱり「ビー公」という名をつけてやるのが一ばん適当だということになりました。「ビー公、来るなら来い」です。
グラマンF4Fが「熊蜂」(これは必ずくまん蜂と呼んで下さい)と名づけられたのは、この艦載機の群が来襲する様は藪の中からワァンワァンと飛び出して来る毒々しい熊蜂を連想させるからです。P38の「めざし」は見た感じそのまま、いかにもめざしが飛んでいるようではありませんか。 👶おぢさん!坂なんとかって言うパイロットは自著で「20mm弾に被弾すると誘爆して翼がもげるから最初に打ち尽くしてた」って書いてるよ >>94
それは坂井三郎だね…ぼうや…😔
戦争後期にはそうでもしないと生き残れない惨状だったんだ…😔 一方、アメリカの兵隊さんの飛行機の機銃はどうだったか知っているかい…😔 >>97
日本は負けるべくして負けたんだよ…ぼうや…😔 アメリカの飛行機はね…12.7mm機銃を6挺とか程よい大きさの弾をばらまく戦法でね…😔 >>101
かしこいぼうやだね…雨のように弾丸をばら撒いていたんだよ…😔 めざしことp-38なんかは37mm機関砲1門、12.7mm機関銃2挺、7.62mm機関銃2挺を載せていたんだよ…😔 戦争も末期になってくるとアメリカの飛行機はますます優秀な防弾が施されて…ゼロ戦の機銃はより効かなくなってね…😔 仕方がないから弾を打ち尽くしたら敵機に体当りするようになったんだよ…😔 それは美談とされてね…同調圧力で弾を打ち尽くしたら体当りしないといけないような空気になっていったんだ…😔 😔ゼロ戦は艦上機でかつ航続距離が長いことが大きな利点だったんだ…
😔でもアメ公の爆撃機から空を守るのには零戦は向いてなかったんだ… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています